防災・減災への指針 一人一話

2013年10月03日
環境衛生面の復旧のために―し尿処理・災害ごみ―
多賀城市役所 総務部管財課
阿部 守さん
多賀城市役所 市民経済部生活環境課
星 昌昭さん

発災時の対応

(聞き手)
 発災直後は、どこで何をしていらっしゃったのでしょうか。

(阿部様)
 発災当時は市役所内で事務をしていました。災害が発生した場合、廃棄物処理関係などを扱う生活環境課という部署にいました。発災後は災害廃棄物を置く場所をどこにするのかなどの夜通しの準備をしていました。

(聞き手)
震災当日、生活環境課には、市民の方からの問い合わせや苦情はあったのでしょうか。

(阿部様)
 いえ、発災当日はありませんでした。市内の施設が停電している中で市役所には非常用発電があって電気が点いていたので、多くの皆さんはあたりが暗くなってから避難されてきました。苦情が寄せられたのは翌日以降です。

(聞き手)
 今回の大規模な地震を経験されて、宮城県沖地震が来たのだと思いましたか。

(阿部様)
 とうとう来たのかと感じました。2分半の間、ずっと揺れていたイメージしか残っていません。

(聞き手)
その時に津波が来るというイメージはございましたか。

(阿部様)
 ありませんでした。しかし、多賀城市は海から離れているイメージがあったので、津波で浸水したといっても長靴で行ける程度を想像していました。当時の事務室にはテレビがなく、ラジオを付けて状況を聞いており、その中で仙台港に10mの津波が来たという話や、国道45号の歩道橋の上に100人程度が避難しているという放送を聞きました。

(星様)
 震災当時は市民経済部商工観光課に在籍していました。発災直後は課の事務室にいましたが、強烈な揺れとともに、パチパチと電気が消えた事を今でも鮮明に覚えています。私は鶴ヶ谷班という現地班に所属していたので、揺れが収まったらすぐに現地に向かわなければと思いながらも、停電の状況と市役所から見える道路の様子から、地震といってもたいした被害は無いかもしれないと思っていました。その後、すぐに現地に向かいました。砂押川の笠神新橋付近の老人福祉センター、現在のシルバーヘルスプラザが鶴ヶ谷現地班の詰所になっており、そこに車を置いて堤防沿いを確認に向かったところ、私が隠れられるほどの大きさの地割れが見つかりました。ここは立ち入り禁止にした方が良いと思い、詰所にガムテープを取りに戻りました。当時、笠神新橋に到着した時には川に水が無かった記憶があります。ただ津波が来るという概念を持っていませんでしたので、夜までに通行禁止にしようと作業をしていたら、突然津波が来たので、走って高台に逃げました。一緒に作業していた職員は逆側の堤防を歩いていましたが、何とか津波から逃れて、後で合流出来て安心しました。その時にはもう橋だけが浮いた島のようになり、他は四方がすべて水浸し、堤防も一部決壊しました。また、川からの遡上にあわせ、仙台新港方面からも水が迫ってきました。夕方になって、その付近の家で逃げ遅れた市民の方は、自衛隊や、消防のボートなどで助けられていました。

(聞き手)
 津波を見てから逃げ始めたとお伺いしましたが、間一髪で逃げた形になるのでしょうか。

(星様)
 正確には、津波が来たという声を聞いて逃げました。

仮設トイレとし尿処理組合への受け入れ打診

(聞き手)
 発災後の行動や対応についてお聞かせください。

(阿部様)
私はずっと市役所にいました。翌日、災害廃棄物の仮置き場を中央公園の駐車場に設ける事になったので受け入れ態勢を整え、その次に仮設トイレの手配が必要である事から、市が許可を得ているし尿の汲み取り事業者の方の手配をする事になりました。事業者の方は八幡という地区に事業所があったので、避難所となっている八幡公民館に避難しているだろうと考え、午後9時過ぎにもう1人の職員と一緒に歩いて向かいました。市役所は電気が点いていましたが、他は停電していたので真っ暗でした。鎮守橋の辺りで、水音が聞こえると思って懐中電灯で下流側を照らしたら、津波が来ていました。津波の勢いがどの程度になるか予想出来なかったので、急いで橋を渡り、後ろを確認してみたら、橋の欄干の下まで水が来ていました。その後、公民館に着いたのですが皆さんはもう寝ていらしたので、翌朝、事業所に出向き、事業者の社長と会うことが出来ました。し尿の汲み取りをできないか相談したところ、バキュームカーがすべて被害を受けて作業が出来ないという事でした。そこで多賀城市以外でどこかに依頼できないか考えた時に、利府ならどうかと思いついて相談に向かいました。というのも、多賀城市・塩釜市・利府町・七ヶ浜町・松島町で、し尿処理の事務組合をつくっているのです。利府衛生さんという会社に、何とかご協力いただけませんかとご相談したところ、利府町でも浜田地区で津波被害があったが、利府町役場に了解をもらえるのであれば、協力して頂ける事になりました。利府町役場の担当課で、利府衛生さんのし尿汲み取りの協力を要請しましたが、最初は利府町も被害があり、し尿汲み取りの事業者が1社しかないため、難しいといわれました。交渉の過程で、し尿処理場の被害状況の話題が出て、お互いに連絡が取れていなかったし尿処理を行っている塩釜環境組合へ、私が被害状況や受け入れ態勢等を確認しに行く事になりました。塩釜環境組合の施設は地震の被害もほどんどなく、し尿処理は停電で行えないものの、受け入れはできるということでした。その事を利府町へ報告するため、利府町役場や戻りました。そして、利府町の担当者の方が、利府町長に多賀城市の状況を説明して頂き、利府衛生さんからの協力をもらう事の了解を得ました。

(聞き手)
仙台市に協力要請に行くという事はなかったのでしょうか。

(阿部様)
 仙台市は、し尿処理事務組合組合メンバーでないため、し尿処理の受け入れを依頼するとなると行政区域を越えた事務という事で、煩雑な手続きが必要となります。事態は一刻を争っていたので、仙台市との調整はしませんでした。

(聞き手)
仮設トイレを集めるのにも、ご苦労されたのではないでしょうか。

(阿部様)
 その通りで、支援を頂きました。東北六県と新潟県とで、提携を結んでいます。今回は新潟県から支援が来ましたし、簡易組み立て式のトイレが経済産業省を通じて送られました。ただ、経済産業省から送られてきた仮設組み立て式のものは職員で組み立ててくれという事でしたが、大き過ぎて、職員で組み立てるのは無理だとわかりました。災害時の協定先である多賀城市建設災害防止協議会に連絡して、建設会社の方たちに組み立ててもらいました。

災害ごみ集積場所の確保と二次災害の防止策

(聞き手)
 当時の対応で、何か苦労された事はありましたか。

(阿部様)
 多賀城市は面積が県内3番目に小さい割に、人口は約6万2千人と県内1番目に人口密度が高いのです。ですからまとまった土地が無く、災害廃棄物を置く場所にまず困りました。

(聞き手)
 土地は、まず市のものを使われるのでしょうが、その次に民間などに受け入れてもらう事になった時の苦労された点は何ですか。

(阿部様)
 沢山あります。最初は中央公園の駐車場に置いていましたが、そこが1週間ほどで一杯になり、あやめ園の駐車場にも置きました。そこもすぐに一杯になるから次はどこに受け入れすればいいのかという心配もありました。

(聞き手)
 多賀城市では、仮置き場での災害廃棄物による火災は起きましたか。

(阿部様)
 環境省の方が何度か多賀城市に来て、11月を過ぎれば火災の心配は減るというお話しをされていました。国立環境研究所の方も同席していましたが、その理由を伺ったところ、アメリカでは家庭の生ごみを山に埋め立てているそうです。そこで火災が起きるのは7~10月なので、それを過ぎれば安全だという事でした。ですが、実際に多賀城市の仮置き場で火災が起きたのは翌年の1~3月にかけてでして、国でも想定外の出来事だったようです。後からわかった事ですが、原因は雪が災害廃棄物を覆ってしまい、かまくらのようになり、熱の逃げ場が無くなって自然発火したという事でした。
消防署からのその後の指導もあり、それ以降はしっかり対処しました。
多賀城では独自に災害廃棄物中間処理をし、リサイクル出来るものはリサイクルし、燃やすものは県へ委託して燃やそうという方針だったので、リサイクルできるものを分別して、早めに処理しようという事になりました。そこで災害廃棄物中間処理業務のプロポーザルを行い、事業者を決定し、中間処理に向けて準備中でした。その事業者が、岐阜市内で産業廃棄物の不法投棄があった場合の除去を行っているのですが、情報として、とてつもない量の廃棄物が不法投棄されている山の窪地があり、そこは全体的に熱を帯び、ガスも出ている状態で、廃棄物をかきあげするとそこに酸素が入ってしまい、火災が起きてしまう状態であったと聞きました。対処方法を聞くと、地質を調べるボーリングマシンで水を注入して、全体的に温度を下げて対応したとのことでした。多賀城市でもその方法を採用することにし、消防署に指導された翌日には手配をかけました。

(聞き手)
 震災以降に環境省から瓦礫処理のマニュアルが出されましたが、現場はそうしたマニュアルだけでは対応出来なかったと思います。現場では、問題点やこうした対策をしていれば改善出来たと思うような事はありましたか。

(阿部様)
 多賀城市は少々特殊で、先ほども言ったように産業廃棄物の置き場に困っていました。砂押川の遊水池なども借りて災害廃棄物を置いていました。早い段階で、知事が5月までに各地区に、県が設置する仮置き場を作ると言っていたのですが、実際は延期に延期を重ね、設置したのは1年後でした。災害廃棄物を置く場所が無く、あちこちに何度も移動しました。
 また、他にも数箇所に土地を借りて産業廃棄物を置いていました。最初の2カ月ほどは近隣の方からの苦情もあまり出ませんでしたが、日々気温が上がるごとに苦情の件数も増えていきました。「ハエなどの害虫が大量発生した」、「匂いが酷くて勉強に身が入らない」など、新聞記事にも掲載されました。かといって田畑に置いては将来的に土地が使えなくなるかもしれませんので、国・県・市の土地などを使いました。

(聞き手)
 もし今後、同じような規模の津波が来たとしても、用地を事前に確保するのは難しいと思います。その時にどう対応すればもっと良く動けたか、何かご経験の中で思う事はおありでしょうか。

(星様)
常に仮置き場として使用出来る土地の当たりを付け、事ある毎にその土地が使用出来るか確認しておく事だと思います。ただし、当たりだけを付けておいて、有事の際にビルが建っていて使えないという事がないようにしないといけません。仮置き場が全く足りない状態だった時期には、土地の確保に奔走していました。多賀城市のようにまとまった土地の確保が困難な場合、広域で考えないといけないのではないかと思っています。

(聞き手)
 瓦礫処理は、震災前の元々の業務からは掛け離れた部分がありますが、その時に苦労なさった事は何でしょうか。

(阿部様)
 震災の瓦礫や災害廃棄物が一般廃棄物という扱いになったという事は、法律上、廃棄物が発生した市域内で処理することが前提になります。多賀城市で発生した災害廃棄物を、例えば、仙台市の市域内で粉砕・分別等の中間処理をするにあたっては、多賀城市と仙台市の協議が必要になり、仙台市の了解がないと持っていく事もできません。
一方、産業廃棄物という判断であれば、自治体同士の許可は要りません。処理出来る事業所に直接持ち込み処理してもらうだけで済みます。

注目された災害廃棄物の中間処理手法

(聞き手)
 震災を通じた経験から、後世に伝えていきたい教訓などはございますか。

(阿部様)
 今回の震災で多賀城市は、色々な自治体や建設団体などから応援・支援を頂きました。10年、20年後にも、多賀城市では、こういう支援をしてもらいましたという記録と記憶を残す事が出来ればいいなと思っています。市のホームページには支援の内容を載せていますが、他の部署がどういった応援・支援をもらったかまではわかりません。ですから職員としてみれば、そういったデータベースの一覧を誰でも見られるようになれば良いとも考えています。今でも、他自治体から30~40名の職員に来て頂いているので、どこからどんな支援を頂いたのかは、きちんと把握出来るよう心掛けておきたいと思います。

(星様)
私たちが受けた恩をどうやって返すかは、受けた恩を知らないと出来ません。どういう支援、恩を受けたのかはきちんと伝えていかないといけません。

(阿部様)
 もし何かあったら、少しでも支援して頂いた所には恩返ししたいと思っています。

(聞き手)
他の自治体さんから瓦礫処理について教えてほしいと、市に依頼が入るような事はありますか。

(阿部様)
今はきていません。多賀城市にひっきりなしにきたのは、災害廃棄物中間処理、つまり分別作業を見せてほしいという依頼でした。環境省や財務省、遠くは鹿児島県からも、解体した家屋の基礎でも再利用出来るものを再利用するといった手法を見に来られました。この取り組みも市のホームページに載せています。

他自治体や企業からの支援への感謝

(聞き手)
 支援を受けた自治体や企業への思いをお聞かせください。

(阿部様)
 震災当時は、家庭用ごみの収集にも困っていました。3月11日は金曜日だったので、収集は月曜日からだったのですが、市の委託業者の車両がすべて津波で被災し、市内の事業ごみを集めている事業者へ連絡を取って収集の協力を要請しました。事業ごみを収集している事業者の方は、ごみ集積所がどこにあるかわからないため、委託業者の方と共同で作業して頂き、当面は可燃ごみだけを集めていました。
 というのも、資源ごみやペットボトルを回収するための容器が、ほとんど津波でなくなってしまったので、回収することが出来ませんでした。
その後、たまたま友好都市の奈良市から来られていた職員の方にその不足のことを話したら、トラックとパッカー車、資源回収用箱を、奈良市の職員の方が12時間以上も運転して持ってきてくださいました。これは本当にうれしかったです。
 奈良市にも大変お世話になりましたが、生活環境課で一番お世話になったのは、山形県の長井市です。利府衛生さんにし尿の汲み取りを依頼しましたが、利府町内の業務も同時進行だったので、長井市の方が手配してくれた置賜クリーン設備株式会社と有限会社長井浄化センターという二つの業者さんに協力して頂きました。当時は電気もなくシャワーすら浴びられない状態でしたが、バキュームカー2台と4名の職員の方が来てくださって、食事だけどうにかこちらで用意しました。食事といっても、固いおにぎりとカップラーメンしかない有様で、とても申し訳ない状況でした。
 その後は長井市の地元建設業組合の方々から、ブロック塀撤去のご協力を頂いて、さらには、以前、新潟県中越で地震があった時に災害廃棄物を受け入れた、米沢市のジークライトさんという事業者をご紹介して頂き、そこの事業所には、7月から災害廃棄物を引き取ってもらいました。多賀城市で発生する家庭ごみ2~3年分もの量を引き受けて頂けたので、だいぶ助かりました。
 米沢市と自治体間の協議をして調整し、ジークライトさんの方でも地元住民の方に説明をして受け入れてもらう事になりました。
それまでは、仮置き場に1日に30~40台ほどのダンプがごみを搬入し、段々と災害廃棄物の量が増えていくに比例して、日々苦情も増えていったのですが、7月中旬以降は1日にダンプ50台ほどで、搬出が開始されたことで、苦情もぴたりと止みました。出ていく廃棄物の方が、入ってくる廃棄物の量よりも多いとわかってもらえたのでしょう。
 生活環境課では、国分寺市さんからも家屋解体の受付業務などをしてもらいました。ゴールデンウィークから8月末頃までだったと思います。他にも横浜市から自治法派遣で2人の職員に来て頂いて、熱心に仕事をしてくださいました。やはり、日本で一番、自治体組織の大きい所なので、こちらが聞くと、わからないことがあれば、横浜市の担当部署に電話して調べてくださったので、大変助かりました。横浜市さんは国とも人事交流を行っていますから、私たちのアドバイザー的な役割もして頂きました。

(星様)
 さらに、横浜市から来た職員の方は、事務処理のみに終わらず、毎日一緒に現場に行き、現場の事を見てくださいました。本人いわく、「伝上山という地区の地理だけはわからないまま帰ってしまう」と嘆いていましたが、おそらく1人で市内を不自由なく歩けたでしょう。ここまで日々復旧に尽くしてくれたこの記憶を風化させたくないと感じます。

(聞き手)
 震災を経験していない子どもたちに、将来に向けて何か伝えておきたい事がございましたらお願いいたします。

(阿部様)
 隣近所の人との付き合いは大事にした方が良いと思います。震災で私の妻の実家が津波で被害を受けました。震災当日は、私の家で、妻の母親、義理の兄の家族、私の両親や近所の6世帯約20人で寝たそうです。それを考えると、普段からの近所付き合い、顔の見える関係の構築は大切だと思います。

(星様)
 私も実家が塩釜で、実家周辺も浸水していたので、集会所に避難して食糧を持ち寄って炊き出しをしながら2~3日そこで暮らしたと聞きました。やはり、そうした人付き合いの場があるコミュニティは災害時でも強いです。